少年のころから長い年月、私の人間形成に心をくだいてくれた一人の姉の喜寿に、この作品集を
恵存できる幸せは大きな感銘である。
 さて これは私の半分も若い人たちの努力で出来た本である。四十年のささやかな労作を省みながら、
自分よりはるかに少い世代の人々が勉強の一里塚ともしてくれようという望外の幸運には、更に責任の
深さを感ぜざるをえない。
                一九七四年 秋  白井晟一
 
                    
――「あとがき」:「白井晟一の建築」中央公論社1974年12月25日発行より

 

 


「すきな色」への素撲な答えに、私には「青」がある。


 「良くなると思えば、(図面は)最後まで変更をする」

        白井晟一は、(芹沢美術館の)現場が始まったとき、静岡市営繕課と大成建設の
        現場監理者たちに、強く言っている。そして、それは実際に行なわれた。

                                
――「石水館 建築を謳う







                      



 










 







































 建築者の宿命とはいいながら、すでに広大な秩序のうちに密度となって溶解してしまった「物」に、
たしかな客観で対するのは、もう私の仕事をこえたことだ.
いずれにせよ、このようなめぐりあいによって形成された「物」にひそむアニマとペルソナの追体験をもし心がけて
くれる人があるならば、この写真集はその手がかりに何らかのよすがとなるだろう.

                          
  1980年春. 白井晟一 (「懐霄館」あとがき より

――「好きな色」より

われわれが欲しいものは、最高の借り物でなく、最低の独創であるべきだが、
日本の手本があろうと、ヨーロッパの手本があろうと、他力本願で「創造」はできない。
この土の上で、自主の生活と思想の中から世界言語を発見するよりほかない。
それが創造の論理というものだ。




                
               



        

1970 s'

1980 s'

 

 

  

待庵の二畳は抵抗の数寄か、数寄のイロニィか。利休は身中の矛盾と時代の矛盾に
いかにたたかったのであろうか。・・・芭蕉の「わび」はイロニィではなかった。
利休の抵抗はイロニィを出ることはできない。芭蕉は一切を否定する精神の此岸で
骨身を削る内苦の 意識に飽和しながら自然と官能へ真正面から対決したのである。・・・
 
利休は待庵の二畳で闇と光の調和のうちに、おもいのまま空間を収縮し、空間を拡大した。  
利休にとって、すべての空間は限定された神秘を脱出する人間的可能性であり、時間は
悠久の可能性以前のなまなましい実体であった。・・・
待庵の二畳は時空をこえた利休のダイモニアの影をうつす。しかしまた、さまざまな明暗を
ふくんだ歴史の比喩とも見えるうちに、なにかうすれた倫理性の蒙昧を感ずるのはどういう
ことであろうか。 
                   ――「待庵の二畳」(「新建築」1957年8月号 )
  
われわれ創るものにとって、伝統を創造の契機とするということは終結した現象としての型や手本から
表徴の被を截りとって、その断面からそれぞれの歴史や人間の内包するアプリオリとしての潜能を
感得するとともに、われわれの現実へ創造の主体となる自己を投入することだといわねばなるまい。 
空海や時宗、あるいは雪舟、利休を思う時、私はそれらの人々や時代のうちに生きていた切迫する
縄文的な脈拍を感ぜざるを得ない。
人と時代の生活・精神を実存として統一し、これを永遠な価値に昇華させる力量は、あるいは個性や時間を超えたものであろう。それは企てがたい稀有かも知れない。だが消長こそあれ、民族の文化精神を
つらぬいてきた無音な縄文のポテンシャルをいかに継承してゆけるかということのうちに、これからの
日本的創造のだいじな契機がひそんでいるのではないかと思う。
          
        ————「縄文的なるもの 
江川氏旧韮山館について/『無窓』白井晟一著 昭和54(1979)年より
                       (初出は『新建築』1956年=このHPの「著書・エセー」に掲載)

Observations & Analecta

――「煥乎堂について」より

―― 「伝統の新しい危険   われわれの国立劇場建設」
                 朝日新聞  1958.11.22.

「 施主は建築そのものである。」

ということが建築家(白井晟一)の言葉として伝えられ、早速誤解されてしまった。これは
建築を所有したり、使う人々を無視あるいは軽視することを意味しているのではない。建築はいわば「つくる者」と「使う者」の出会う「場」でもある。・・・
建築に対する所有や権利に関して言われていることではなく、「機能」の実現を目的とする、「つくる者」と「使う者」の総合的な人間の営為として、建築がとらえられなければならないという意味で理解されるべきであろう。  
               
――「ああ、石水館」:「つくる者の論理」を求めてⅢ 白井昱磨 より

2021年 7月18日更新

2011年11月11日更新

 「建築家は施主の夢を占う。
 
   
施主には個人から共同体まである。大王もあれば、明日の幽明すら不測の病人もないとは
   いえない。・・桂離宮やパルテノンの建築家はたしかにうまい裁断師、すぐれた医師で
   ある前に透徹した占眼を具えていたと思う。
   同じ造形家でも美術家と異なるこのような負担をのがれられない建築家の宿命であろう。」
  

白井晟一語録

李朝大壷の白も天目碗窯変の黒も、そしてイべリヤの血と砂から連想する情熱の赤も「すきな色」にはいらぬわけではないしすてがたいが、敢えて一つを問われれば「青」と答えよう。