一、 故高村光太郎を記念し、造型及び詩の二部門に高村光太郎賞を設定する。
一、 本賞は前年一月一日より十二月三十一日に至る年度の優秀作品に対し、
   原則として毎年各部門一名に授賞する。
一、 授賞対象となる作品は、主として、造型部門に於いては発表作品、
   詩部門に於いては詩集とする。
一、 賞は、主賞(賞状及び賞牌)と副賞(賞金十万円)とする。
一、 受賞者を選考するため、各部門五名以上の委員から成る選考委員会を構成する。
一、 本賞設定当初の選考委員は
   造型=今泉篤男、木内克、菊池一雄、高田博厚、谷口吉郎、土方定一、本郷新
    詩=伊藤信吉、尾崎喜八、亀井勝一郎、金子光晴、草野心平
   とする。
一、 選考委員会に欠員が生じた場合は高村光太郎記念会がこれを推挙する。
一、 受賞者の発表は毎年三月十三日(故人誕生日)とし、授賞は四月二日(同忌日)とする。
                            昭和三十二年九月十日

                                 高村光太郎記念会

                            
  理事長 高村豊周

規定中、造型とは彫刻、建築、造園、工芸、陶芸などを広く包括する立体造型を意味するものと説明され、
又、賞金は『高村光太郎全集』の印税をもってこれにあてるが、一人五万円として賞を永続させるか、
十万円として十回で終るかの二案のうち、結局、後者が光太郎賞にふさわしいものとして採択された。
賞状は、奉書を用い、草野心平が揮毫して、賞の終るまで変わらなかった。その本文は次の様式を
持つ。

     
 賞状
    高村光太郎記念会は造型部門(又は詩部門)において彫刻『  』
    (又は詩集『  』等)を昨年度の優秀作品と認め貴下に第  回高村光太郎賞を
    呈上します。
                       一九   年四月二日
 
                         高村光太郎記念会
                         
代表  高村豊周 
     
       殿                                                                         

代表の署名のみは、事故の場合を除き、高村豊周が行っている。


賞牌は、幾つかの試案の末、光太郎が磁針の図案と、円形に「いくら廻されても針は天極をさす 光」
の文字を彫りつけた径二十七cm程の刳り盆(古田晁蔵)を原形とし、高村豊周がブロンズに鋳造した
飾り皿があてられることになった。
さまざまな事情を考えあわせ、発表は選考終了後直ちに行われるのが便利だったことから、実際には
三月十三日に必ずしもこだわらなかった。
賞の設定に先立って、その母体である高村光太郎記念会が結成され、高村豊周を理事長とし、北川
太一が事務を担当することになったが、この会は、財産を賞金として費消してゆくため法人化の条件を
欠き、私的団体として終始した。
    
  <中略>
昭和三十六年(1961) 二月二十五日 旅館「龍岡」でこの年度の選考委員会を開催。
           
造型部門では彫刻『蟻の城』により向井良吉、建築『善照寺本堂』他により
           白井晟一、詩部門では詩集『ゴリラ』(ユリイカ)により山本太郎、
           『ゲオルグとリルケの研究』(岩波書店)により手塚富雄に第四回高村光太郎
           賞を贈ることが決定した。
           四月二日 椿山荘庭園で第四回高村光太郎賞授賞式が行われ、式後、
                 野外ビヤ・パーティ形式で連翹忌の集りが催された。

        
<後略>

 
  覚 書
○昭和三十二年九月、故高村光太郎の名によって設定された造型、詩二部門における賞は、当初の
 予定通り昭和四十二年四月、十回の授賞をもって完了した。この書はそのすべての選考委員、
 すべての受賞者の作品を収録した記念の花束である。
        <中略>
○この書が、ただに高村光太郎賞の記録としてのみならず、昭和三十年代の最も優れた詩と造型作品の
 アンソロジイとして読者の鑑賞にうったえ得れば、刊行の意図は果されたといっていい。

                           
                         
昭和四十四年五月
                              高村光太郎記念会 


* 結果的には,「高村光太郎賞」10回のうち、建築作品の受賞者は白井晟一(第4回)と黒川紀章
 (1965年・ 第8回高村光太郎賞 造型部門 ) の2名だけとなったのである.

 

【白井晟一の言葉】 (授賞対象となった群馬県松井田町役場の写真の右頁に)
   この建物ができた頃、ギリシャ神殿や伊勢神宮の棟持柱の暗示から出発したんだというおもしろい
   クリティクが多かった。私はこれより以前に東北で垂木構造緩勾配の村役場をつくったが、ここでは
   それを鉄筋コンクリートの素朴なラーメン構造に発展させたにすぎない。私には木造建築の費用で
   新しい時代へ脱皮してもらいたい町民を主人とする公共的な、殊に妙義に対する景観をうけとめられる
   ような建築をつくって、畏友水原徳言の友情や大河原町長の知遇に応えたいということで精一杯だった
   思い出しか残っていない。



2021. 3. 6. 追記
2010.11 22.追記

2010. 9. 5. 更新

           これは「建築部門は存在したのか?」という質問に対して、その回答として
        高村光太郎記念会事務局長・北川太一氏(高村光太郎研究の第一人者)より
        頂いたコピーである.
        (著書『天極をさす』は白井晟一研究会でもご覧頂けます)

                      
(この青字部分 2010.11.22.追記更新)

  授賞規定(「高村光太郎賞年譜 北川太一」より  

高村光太郎賞 (原文はすべて縦書き)
   高村光太郎賞記念作品集「天極をさす」
より
   
高村光太郎記念会編 昭和四十四年六月十五日発行・求龍堂