書について
  
 中国の歴史に
たしかな時代文化の継起を証せるのは、体系として「字」がはやくから確立していたからである。「字」は「書」となって有機的な世界に昇華結晶し、歴史の進展とともに洗練、整容されていった。それから二千年、今日私たちをして仰ぎ学ばざるを得ない「書」はいずれも時代精神の象徴であったことはいうまでもないが、これは聖なるもののサインというより人間の正息であった。・・・ われわれの日常がどのように電子文化にかいならされようと、なお「字」を媒介としない生活のメディアとしての「書」はどのような歴史推移のうちにも、なお不変な意義をもつものだといわざるをえない。
 
 また「書」に正統や異端があるとは思わないが,「字」をこえて「書」はない。 悠久な歴史の中で彫琢され、その骨骼・肉付けを完成してきた過程を信頼する私たちは、絵画と判別できないカリグラフや恣意な創作墨象というような新語の感覚をもって「書」に対することはない。 
 
 私が建築を生業としながらこの十数年、一日の半分を習書でうずめることができたのは大きな恵みであった。しかし筆・墨をもって紙にむかうことはたしかに一つの「行」にちがいなかったし、心と目と手の一如を不断に身につけていなければ「書」にならなかったという経験の反覆は、先達が生きていた時間や空間にわずかでもせまりたいという望みを深め、空間造形
(=原文では「造型」)の無限の意味を省る何よりの励ましであった。
                   
―― 初出「書のこころと美」(主婦の友社)1977.9月

Calligraphy of Seiiti Sirai

白井晟一の書

白井晟一 「(書を始めたのは)15年、いや20年近くになりますか、九州の仕事をし始めてから、はっきり日課としてやるようになりました。九州ですから飛行機で行ったり来たりですが、建築の仕事というのは毎日、1年中あるわけじゃない。<中略> 九州へ行けば2週間なり、3週間なり長くなります。すると時間が猛烈にあるわけですよ。それで、これはお習字でもしよう、ということになったわけです。字そのものはもともと好きで・・・。」
  「(若い時には)殆んどやっておりません。じつは四つぐらいの時にお寺で習字を習ってるんです。
<中略> ところがね、子供ながらに多少自信は持っていたかもしれんのが、いろんなことがあって、まったく字が嫌いになったりした。最初は、小学2,3年のころ、京都におったんですが、同級生に東本願寺の大谷光暢がいて、これがいつも僕より点がいいんですよ。<中略> それで字なんかいやになって書かなくなり、成績なんてどんどんお尻のほうになりましたよ。その次は、中学に入ってからで、これも同級生に吉田君というのがいまして、こいつはお習字の先生の生徒なんだ。それもいつも点がいいんですよ。
 「そんなことで字を書くことに興味を失いましたね。しかし、結局書は好きで、本を見たり、字を見たりはしてましたね。ところが、これはずっと大人になってからですが、中国のお手本を見て、これはいかんと思ったんです。他のことならたいてい半人前ぐらいは皆と同じようにできるが字だけはだめだ。それで、字というものを、まったくやめようと思った。
 「そんなことで筆を断ってたのが、九州でやりましたらね、ひょっとしたら、勉強さえすれば自分では納得できる字ぐらい書けるようになるんじゃないかと感じたわけです。
 「もう16時間ぐらいぶっ通したというのもありますよ。掛け軸くらいの紙に。長崎というのは黄檗の来たところで、黄檗のお寺をかたっぱしから歩いて、扁額とかいろんなもののお手本を見てきて、ずいぶん書きました。
 「ひょっとしたら、自分では楽しめる字が書けるんじゃないかという気がしはじめて、もう一生懸命にやりました。もっとも、僕は書法というものを知らんわけだ。お習字の先生を昔はみな蹴飛ばしたんだから、先生はいない。それで乱暴狼藉な字ですよ。一日中国の法帖を手本にやると、あくる日は全然忘れて自分の字を書きました。だけど法帖を置いた時は、丹念に臨書しました。しかし、そのうちに法帖を置いといて、どんどん書いてもそっくりに書けるんです。おもしろいものですね。           
             
                ――「白井晟一 建築と書」対談(くりま 1980.7月)より

 

  

2010.5.13.更新

書について
建築と書 (対談)