2023,5.4. 註追記

2023.4.10.更新
2010.5.13.更新

  書について
  
 中国の歴史に
たしかな時代文化の継起を証せるのは、体系として「字」が
はやくから確立していたからである。「字」は「書」となって有機的な世界に
昇華結晶し、歴史の進展とともに洗練、整容されていった。それから二千年、
今日私たちをして仰ぎ学ばざるを得ない「書」はいずれも時代精神の象徴で
あったことはいうまでもないが、これは聖なるもののサインというより人間の
生息
(原文では正息)であった。・・・われわれの日常がどのように電子文化に
かいならされようと、なお「字」を媒介としない生活のメディアとしての「書」
はどのような歴史推移のうちにも、なお不変な意義をもつものだといわざるを
えない。
 
 また「書」に正統や異端があるとは思わないが,「字」をこえて「書」はない。 
悠久な歴史の中で彫琢され、その骨骼・肉付けを完成してきた過程を信頼する
私たちは、絵画と判別できないカリグラフや恣意
な創作墨象というような新語
の感覚をもって「書」に対することはない。 
 
 私が建築を生業としながらこの十数年、一日の半分を習書でうずめることが
できたのは大きな恵みであった。しかし筆・墨をもって紙にむかうことは
たしかに一つの「行」にちがいなかったし、心と目と手の一如を不断に身につけ
ていなければ「書」にならなかったという経験の反覆は、先達が生きていた時間
や空間にわずかでもせまりたいという望みを深め、空間造形
(=原文では「造型」)
の無限の意味を省る何よりの励ましであった。
                
―― 初出「書のこころと美」(主婦の友社)1977.9月

  
  
  建築と書
(対談)

白井晟一 「(書を始めたのは)15年、いや20年近くになりますか、九州の仕事をし始めてから、
はっきり日課としてやるようになりました。九州ですから飛行機で行ったり来たりですが、建築の
仕事というのは毎日、1年中あるわけじゃない。
<中略> 九州へ行けば2週間なり、3週間なり
長くなります。すると時間が猛烈にあるわけですよ。それで、これはお習字でもしよう、という
ことになったわけです。字そのものはもともと好きで・・・。」
  
   「(若い時には)殆んどやっておりません。じつは四つぐらいの時にお寺で習字を習って
るんです。 
<中略> ところがね、子供ながらに多少自信は持っていたかもしれんのが、
いろんなことがあって、まったく字が嫌いになったりした。最初は、小学2,3年のころ、京都に
おったんですが、
同級生に東本願寺の大谷光暢がいて、これがいつも僕より点がいいんですよ。
<中略> それで字なんかいやになって書かなくなり、成績なんてどんどんお尻のほうになりまし
たよ。その次は、中学に入ってからで、これも同級生に吉田君というのがいまして、こいつは
お習字の先生の生徒なんだ。それもいつも点がいいんですよ。
  
  「そんなことで字を書くことに興味を失いましたね。しかし、結局書は好きで、本を見たり、
字を見たりはしてましたね。ところが、これはずっと大人になってからですが、中国のお手本を
見て、これはいかんと思ったんです。他のことならたいてい半人前ぐらいは皆と同じようにできる
が字だけはだめだ。それで、字というものを、まったくやめようと思った。
 
  「そんなことで筆を断ってたのが、九州でやりましたらね、ひょっとしたら、勉強さえすれば
自分では納得できる字ぐらい書けるようになるんじゃないかと感じたわけです。
 
  「もう16時間ぐらいぶっ通したというのもありますよ。掛け軸くらいの紙に。長崎というのは
黄檗の来たところで、黄檗のお寺をかたっぱしから歩いて、扁額とかいろんなもののお手本を
見てきて、ずいぶん書きました。
 
  「ひょっとしたら、自分では楽しめる字が書けるんじゃないかという気がしはじめて、もう
一生懸命にやりました。もっとも、僕は書法というものを知らんわけだ。お習字の先生を昔は
みな蹴飛ばしたんだから、先生はいない。それで乱暴狼藉な字ですよ。一日中国の法帖を手本
にやると、あくる日は全然忘れて自分の字を書きました。だけど法帖を置いた時は、丹念に臨書
しました。しかし、そのうちに法帖を置いといて、どんどん書いてもそっくりに書けるんです。
おもしろいものですね。           
             
              ――「白井晟一 建築と書」対談(くりま 1980.7月)より


註)「同級生に東本願寺の大谷光暢がいて
ということから、白井晟一は(中京区や上京区
  ではなく)京都市下京区の東本願寺付近で幼少期を過ごしたことがわかる
                            (このHPのCVを参照)



 

   書について
(全文)
  
 中国の歴史に
たしかな時代文化の継起を証せるのは体系として「字」が
はやくから確立していたからである。「字」は「書」となって有機的な世界に
昇華結晶し、歴史の進展とともに洗練、整容されていった。それから二千年、
今日私たちをして仰ぎ学ばざるを得ない「書」はいずれも時代精神の象徴で
あったことはいうまでもないが、これは聖なるもののサインというより人間の
生息
(原文では正息)であった。だから「用」の最尖端にたつ重要さを支える明快
さと、理性のノルム(規範)
(原文では基範)を逸脱することのないきびしさを
そなえていなければならぬ。しかも人間くささ、いわば人間的なドラマを演出
する内容をもっていたのである。
 
 幸、不幸はともかく、今日のわれわれの「書」は合理主義的思弁にでた必然
の表象とはいい難いし、「書」と生活実存との格闘は、いよいよ苛烈ならざるを
えまい。いずれにしても「書」のドラマティックな大系は巻をおおったわけでは
ない。もとより王や顔の肉体・精神の営為を追体験することなど企つべきことで
はないが、われわれの日常がどのように電子文化にかいならされようと、なお
「字」を媒介としない生活も教養も想像しようがない。ことに思索や体験の持続
による人間や社会の陶冶・蓄積のメディアとしての「書」はどのような歴史推移
のうちにも、なお不変な意義をもつものだといわざるをえない。
 
 また「書」に正統や異端があるとは思わないが,「字」をこえて「書」はない。 
悠久な歴史の中で彫琢され、その骨骼・肉付けを完成してきた過程を信頼する
私たちは、絵画と判別できないカリグラフや恣意な創作墨象というような新語
の感覚をもって「書」に対することはない。 
 
 私が建築を生業としながらこの十数年、一日の半分を習書でうずめることが
できたのは大きな恵みであった。しかし筆・墨をもって紙にむかうことは
たしかに一つの「行」にちがいなかったし、心と目と手の一如を不断に身につけ
ていなければ「書」にならなかったという経験の反覆は、先達が生きていた時間
や空間にわずかでもせまりたいという望みを深め、空間造形
(原文では造型)の無限
の意味を省る何よりの励ましであった。
                        
  注 王は王義之、顔は顔真卿
                   

                      
 ―― 初出「書のこころと美」(主婦の友社)1977.9月
  

Calligraphy of Seiiti Sirai

書について
建築と書 (対談)

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