書について
中国の歴史にたしかな時代文化の継起を証せるのは、体系として「字」がはやくから確立していたからである。「字」は「書」となって有機的な世界に昇華結晶し、歴史の進展とともに洗練、整容されていった。それから二千年、今日私たちをして仰ぎ学ばざるを得ない「書」はいずれも時代精神の象徴であったことはいうまでもないが、これは聖なるもののサインというより人間の正息であった。・・・ われわれの日常がどのように電子文化にかいならされようと、なお「字」を媒介としない生活のメディアとしての「書」はどのような歴史推移のうちにも、なお不変な意義をもつものだといわざるをえない。
また「書」に正統や異端があるとは思わないが,「字」をこえて「書」はない。 悠久な歴史の中で彫琢され、その骨骼・肉付けを完成してきた過程を信頼する私たちは、絵画と判別できないカリグラフや恣意な創作墨象というような新語の感覚をもって「書」に対することはない。
私が建築を生業としながらこの十数年、一日の半分を習書でうずめることができたのは大きな恵みであった。しかし筆・墨をもって紙にむかうことはたしかに一つの「行」にちがいなかったし、心と目と手の一如を不断に身につけていなければ「書」にならなかったという経験の反覆は、先達が生きていた時間や空間にわずかでもせまりたいという望みを深め、空間造形(=原文では「造型」)の無限の意味を省る何よりの励ましであった。
―― 初出「書のこころと美」(主婦の友社)1977.9月
Calligraphy of Seiiti Sirai
白井晟一の書
2010.5.13.更新