白井晟一

Curriculum Vitae

1905年 2月5日 京都市に生れる  京都市下京区五条下ルに育つ 
1916年 2月7日  父・白井七蔵 (下京区間之町五条下ルの銅職人「塩屋」)44歳 逝去
         義兄・近藤浩一路邸(東京府本郷湯島)に身を寄せる
1923年     関東大震災で近藤一家と京都に移転(京都市上京区)
1924年 4月 京都高等工芸学校 図案科 (現在の京都工芸繊維大学 工芸科学部
デザイン・建築学課程)に入学. 
         一方、京都帝国大学の美学の聴講に勤しむ
1927年11月 深田康算(京都帝国大学教授)発病、右側湿性肋膜炎
1928年 3月 京都高等工芸学校 図案科卒業
1928年11月12日 深田康算 逝去(50歳
1929年12月 母・エン 逝去. これを契機に渡欧を決意.ドイツへ留学
1930年    ベルリン大学で講義を聴くかたわら、鈴木東民のあとをうけ、邦人相手の左翼新聞
         「ベルリン通信」を市川清敏と共に編集発行した.
1931年10月19日 母校の恩師・向井寛三郎教授がドイツ留学、ベルリン着を出迎えに行く.
         毎日のように教授の下宿を訪ね、食事を共にする.
1932年1月23日 本野精吾教授より向井教授に、教材資料買い付けの為に書留郵便が届く
     2月3日 向井教授を訪ねて、友人の市川の為と言って300マルク借りる.
               (以上3件は、向井教授の『滞欧日記』に
記載あり)
1933年    シベリア経由で帰国
         東京山谷の労働者街で孤児を集めて世話をする
         昭和研究会に市川清敏と共に参加するが、まもなく脱会.
1934年    千葉県清澄山山中に弟やその仲間たちと大投山房と名づけた山小屋を建て、
         新しき村と禅の道場とマルクス主義運動の拠点づくりをかねたような共同生活を
         始めるが、1年ばかりで解散. 
1935年    義兄が北多摩郡久留米村に新築、設計士・平尾敏也氏に依頼 
         施主の代弁者として、住宅設計に関わる 
1936年     近藤邸の新築を機に、知人の木造住宅設計を手掛ける
         装丁も始める 
1948年    秋田で文化講演・建築の仕事が始まる
1952年 5月 国学院大学華道学術講座で講演「華道と建築  日本建築の伝統」
1956年    代表的エッセイ「縄文的なるもの」が建築界に論議を呼ぶ
1961年    第4回高村光太郎賞の造型部門受賞  
             ― 「善照寺本堂」他により 
1968年     第20回 日本建築学会賞

1969年     建築年鑑賞、毎日芸術賞が「親和銀行本店」の業績に対して贈られる
1971年    建築業協会賞受賞
         「箱根国際会議場」コンペ審査員を委嘱される
1975年     「ノア・ビル」で日本サインデザイン賞受賞
1977年 1月 朝日新聞の「日記から」を2週間連載
      6月 朝日ゼミナール「現代建築の再構築」シリーズで講演
1980年     第36回 日本芸術院賞受賞 
         「親和銀行本店」(懐霄館)の業績に対して
1981年     帝国ホテル「亜門茶廊」で82年度 商空間デザイン賞(特別賞)受賞
1983年 11月19日夜 「びわこ湖北寮」の現場後、湖北の鴨鍋の歓迎会から夜、京都の仮住まい(松尾)に
            帰宅してのち(入浴しようとして)倒れ緊急入院  (同行者の証言、湖北の現場事務所
            での記念写真あり)
     11月22日夜  京都市東山区の病院で逝去 (享年78歳) 





深田康算(ふかだ やすかず)略年譜
  1878年10月19日  山形市香澄町にて東京府士族 深田康守の長男として出生.
  1896年 9月     第2高等学校(仙台)入学
  1899年 7月     東京帝国大学文科大学哲学科入学
  1902年 7月     東京帝国大学大学院入学. 
               この年ケーベル博士宅に寄寓し、爾後留学前までの5年間を
ここに過ごす
  1906年 8月     夏目漱石とも親交あり.漱石は12日付け書簡で「『草枕』を御覧頂きたく・・」と記し、深田は
              『草枕』を名作として、感想を伝えたことが、漱石の書簡(9月5日付け)よりわかる.
  1907年 5月     美学および美術史研究のため、満3年間ドイツおよびフランスへ留学を命ぜられる
  1910年(32歳)10月 帰朝.  
            11月 結婚. 京都帝国大学文科大学教授に任ぜられ、美学美術史講座担当を命ぜられる
 
 1913年       須田国太郎(のちに美学者であり、画家.京都に独立美術研究所設立、指導)が
              京都帝国大学に入学.深田の晩年まで薫陶を受けた唯一人の画家であり、理論を実践へと
              結びつけた弟子である.

  1917年
6月      京都帝国大学建築委員会委員を命ぜられる   
  1922年
4月      欧米各地へ出張を命ぜられ、5月出発.
  
  1924年
8月
     勲三等瑞宝章を受ける  
  1927年
11月     発病、右側湿性肋膜炎と診断される.
  1928年 4月      病状回復し、庭内散歩
       7月     下鴨森本町より北白川平井町に転居.下旬より再び高熱持続し、腹膜炎の併発をみる.
       11月12日 
 逝去(満50歳+24日
  
      


 参考文献
: 『美と芸術の理論』 (深田康算講演録)  吉岡健二郎解説   (1971年・白凰社)
        
 但し、年譜の1913年の項は、上記の参考文献に依るものではない.

       [吉岡健二郎先生は私の学生時代に授業を受けた、大変ダンディーな敬愛する先生でした.
             京都大学文学部哲学科卒.京都大学教授、一時期、京都工芸繊維大学にも招聘され
             「デザイン美学」を講義
.京都大学名誉教授.退官後も著書多数、京都造形芸大教授.
             1994年1月1日より11年間、静岡県立美術館2代目館長.
           
 上平 貢先生(京都工芸繊維大学名誉教授・嵯峨芸術大学長・京都市美術館長)とは
            京都大学生時代からの親友であった]

      

                  


 












    
 

2019年 9月11日 更新
2019年 3月16日 追記

2014年12月23日 更新

2013年 4月10日 追記
2013年 3月30日 追記

2013年 2月14日 更新

2011年11月11日 更新