仏教と伽藍   建築学生のために  

 日本は仏教国といわれる。しかし、ヨーロッパのキリスト教、あるいはアジア、アフリカのイスラムに
くらべて、宗教的な密度や比重では、仏教国とはいえぬという。歴史のはげしい推移につながる経済・
政治とのかかわり方でも、その消極的な、無関心ともみえる間接性のために、このような比喩は認め
なければならぬかもしれない。
だが、大多数の日本人の庶民的な日常生活における仏教的なニュアンスや、八万の寺院、十数万と
いわれる僧職を擁する事実は無視するわけにはゆくまい。ことに千五百年も生きてきた日本文化の伝統
をふりかえってみるとき、われわれにとって、仏教は中国、インドのそれとくらべられぬほど、深い契縁
をもつものといわなければならない。     
    (中略)  
 伽藍は発祥の意味からいっても、死者儀礼や厚生事業の場として足りればよいのではない。どこま
でも人間内実の改良にかかわる責任と、平和の質の純化を祈る世界性をもった建築造形だという誇りが
あってよい。そうなればおのずからシャカの自由精神に近づき、誰にでも自発的に人間内部の葛藤を
滅却させる戒律が思い浮べられる雰囲気の望まれるのは当然である。厳浄・静謐な空間だ。
 われわれが幼い時から寺になじめなかったなによりの理由は、中国建築の影響の強い呪術趣味の
装飾がかきたてる幽霊連想ではなかったか。天国の様式を金箔でディスプレーする幼卑の裏には、
貧しい民衆の射倖心に投ずる智恵の浅い商売の腹もみえよう。悉皆金色の浄土にははるかな黄金地獄
の舞台装置だ。それもまた輪廻という、ある意味では残忍な刑罰思想で業死の恐怖感を誘い、
かえって大衆の属性を近づかせない教権意識の伝統的な操作というほかなく、今日なおほとんどの
寺院に固執されている迷信の汚染といわなければならない。
 戦後に再興された寺院の多くは、清浄簡潔という最も重要な様式を忘れた、あいも変らぬこうした
怠惰か護教かの伝統主義、そうでなければ増大する民主思潮の表面的な世界意識に迎合して、
突然変異の外来様式を踏襲する現実主義のいずれかであって、すでにそれらの様式と生産の循環は
はじまっている。亜流・模倣はお家芸だが、たとえ一時的にもせよ、エゴイズム解放に集まる善男善女
に仏道の実感を伝えるには、なにか宗教主体の終末感というか、血液の異なった救いのない気配しか
感じられぬ。折版構造の壁で囲み、ハイパーボリック・シェルの屋根をのせる伝統克服の勇気はよい。
だがテクノロジーの選択も、民族感性の質に昇華された自覚的な創造知性の体験をくぐってくるので
なければ、すくなくとも主体性の確かさが求められるこうした表象の造形には奉仕できない。
 仏寺も仏像と同じように、けっして神秘的なエクスタシーの能力として求められるものではない。
しかし、人間内面へ沈潜する雰囲気のなかで、瞑想という主体の実践を包む空間として、聖と俗との
最も高い調和を導くモメントとなることも忘れてはなるまい。今日のプロパガンダの喧騒のなかでこそ、
市民生活にとって精神的レクリエーションのための静謐な空間は、ことにたいせつにしなければならない。
 今日の仏教には、歴史と人間との対決に、真摯なおそらく最終的な自覚が迫られていると考えられる
のだが、仏寺の建築に従事するものにもまた、僧侶の戒律再生による教学・体験の一致に匹敵する
創造粛清へのすさまじい執念が求められてよい。いずれにしても仏道の本然である実践理性解放の目的
論的な世界観の回復に照応して、もし繁栄と破滅の谷間で昏迷する文明の誤りのなかから民族の感性を
ひきあげ、精神の改良を導きうるような清冽な空間の創造が可能だとしたら、そうしたもっともヒューマ
ンな想像力への確信はまた、われわれの前に否応なく開かれた宇宙秩序のイメージに答える無碍な
創造への参加も望みなきにあらずとするだろう。
                
(一部カタカナ用語は現代の一般的な表示に変換してあります)

  
 
  
   縄 文 的 な る も の   江川氏旧韮山館について      白 井 晟 一


西洋人が20グラムのダイナマイトで小鳥を射落とす.日本人は目を見張りつづけてきたのである.風は吹きまわってこの頃はヨーロッパもアメリカも日本ばやりだという.世界の創造的な建築の中で最上のものを発見してくれたり、インスピレーションと力の偉大な源泉だと称讃してくれる人もある.細い棒を鼻や顎の上に立てて見せるこまかい芸当が、拍手されているのでなければ幸だと思う.だがこれはバルバロアの反省の表現であるかもしれないし、もしまた商業主義の有用な素因として喝采されていることだとしても、それは畢竟海の向う側のことである.しかし元来日本自身の伝統探求のオリエンテイションにははなはだ問題がある.伝統の表面に典型がうかぶのはやむを得ないが、価値概念として固定化し、その上情緒や繊細や簡素という感覚的皮相の墨流しを器用に移しとっては、これを日本的なものとしてノミナライズしてきたことはなかったか.そしてそれがいつの間にか形象性の強い弥生の系譜へ片寄った重点がかかり慣習化されてしまったということはないだろうか.
私は長い間、日本文化伝統の断面を縄文と弥生の葛藤において把えてみたいと考えてきた。一建築創作家としての体験である.ギリシャ文化におけるデュオニュソス的・アポロ的対立にも似た、縄文・弥生の宿命的な反合が民族文化を展開させてきたという考え方は、究竟では日本の個有な人間、歴史性に日本的形姿として定着させたアポステリオリなものの偏重への反省であり抗議である.さて流行するジャポニカの源泉となり、日本の建築伝統の見本とされている遺構は多く都会貴族の書院建築であるか、農商人の民家である.江川氏の旧韮山館はこれらとは勝手が違う建物である.茅山が動いてきたような茫莫たる屋根と大地から生え出た大木の柱群、ことに洪水になだれうつごとき荒荒しい架構の格闘と、これにおおわれた大洞窟にも似る空間は豪宕なものである.これには凍った薫香ではない逞々しい野武士の体臭が、優雅な衣摺れのかわりに陣馬の蹄の響きがこもっている.繊細、閑雅の情緒がありようはない.見物人がためつすかしつするような視覚の共鳴をかち得る美学的フィクションはどこの蔭にも探せないから.保護建造物には指定されないし、もちろんジャポニカの手本とはならない.それに機能といえばこの空間は生活の智恵などというものではない.逆算の説明は御免蒙るだろう.だから文化の香りとは遠い生活の原始性の勁さだけが迫ってくるのだ.けれども蛮人の家ではない.遠くは地方の一豪族であったか野武士の頭領であったか知らないが、近代戦術の創始者であり、すぐれた経世家として日本開運の契機を作った江川太郎左衛門よいう立派な武士の系譜をつないできた居館である.虚栄や頽廃がないのは当然だが、第一、民家のように油じみた守銭の気配や被圧迫のコンプレックスがないのは何よりわが意を得たものである.私はかねてから武士の気魂そのものであるこの建物の構成、縄文的なポテンシャルを感じさせるめずらしい遺構として、その荒廃を惜んでいた.最近は蟻害ことに激しく、余命いくばくもないといわれているが、「友よ、そんな調子でなく、もっと力強い調子で」と語ってくれるこのような建物は何とかして後世へ伝えたいものだと思っている.
縄文の原型、蓄積、持続の筋道に関する究明や、その強靭な精神の表現を完結した典型として発見しようという試みは往往附会に堕ちたことを知っている.われわれ創るものにとって、伝統を創造のモメントとするということは結終した現象としてのTypeあるいはModelから表徴の被を截りとって、その断面からそれぞれの歴史や人間の内包するアプリオリとしてのポテンシャルをわれわれの現実において感得し、同時にその中に創造の主体となる自己を投入することだといわねばなるまい.空海や時宗、あるいは雪舟、利休を思う時、私はそれらの人人や時代のうちに生きていた縄文的なポテンシャルの切迫した脈搏を感ぜざるを得ない.人と時代の生活・精神を普遍妥当なリアリティにおいて統一し、これを永遠なる価値に昇華させる力量は、あるいは個性や時間を超えたものであろう.それは企てがたい稀有かも知れない.だが、消長こそあれ、民族の文化精神をつらぬいてきた無音な縄文のポテンシャルをいかに継承してゆけるかということのうちに、これからの日本的創造のだいじな契機がひそんでいるのではないかと思う.
           ――「新建築」1956年8月号(8月25日発行)より 原文のまま


  
    め し

(前略)
 この世から諸々の雑音とともに装飾が消え、企てをしなくなったらどんなにすがすがしいか。そう
なったら人間は真に感嘆すべきものに目をむけるようになるだろう。コマアシャリズムと恣欲にかりたて
られて喪われてゆく人間性が、もう一度、理想の色をした空の下で、生き生きと回復するだろう。
 美は人間が作るものとは言い難い。求めて得られるものではない。人間にはただ表徴と抽象の能力
が与えられているだけである。
 洞窟内の引掻画や土偶は、原始人の生命意志の表象であって美の意識がつくったものではない。
飛鳥仏の微笑もアッシジの小鳥説法も美が目的ではない。人間が聖なるものにむすばれんがために
祈願と求法の象徴としてつくったものにちがいない。美の予想のないところまた機械における美と異なる
ものではないだろう。「美」は究竟において「用」の属性にすぎず、残忍酷薄の大慈悲がわずかに
許す老婆心切の「美」のみが考えられるだけである。
 「用」から「美」を独立させたときから自然力としての人間は誤られ始める。「美」をつくる術が
人間の手にあると思い上ったときから、人間の生命と自然の根本法則との連着が断ちきられてしまった。
それからの人間はあけてもくれても「用」と「不用」の闘いを続けざるを得なくなったのである。
 私はさきに「豆腐」の美を「用」のうちに規定した。人間の智恵と自然の理法の善における調和を
もって他の「美」と区別した。しかし、かかる区別は畢竟、極限としての価値においてなお「用」と
「美」の対立を内包するものである。
 さて「めし」は「豆腐」よりもなお自明な「用」である。最小限から最大限の「用」を形成し、
それ自体に善と悪の生命と法則を内有する。ここではもはや「美」は「用」の属性として規定される
ことも許されない。無自覚な徳と力の実践原理となるときにのみ「美」同一を認めるだけである。
 人間とその仕事がまだ自然と適切な繋りをもっていた時代から、すぐれた自然法の体得者であった
われわれの先祖は、粒々辛苦の米稲をつくっていた。彼らの「土」のもっとも深い所から湧く水と、
清祓の火によって炊かれた「めし」はまず「神」に捧げられ、かれらの生を養うのは天の恵与たる
その残滓であって、感謝と祈りによって再びこれを神に還元するのである。 (中略)
 「生」と「聖」を、「めし」において契合統一させたわれわれの祖先は、やがてこの祈りを
共同体精神文化の背骨とするのである。弥生文化は「めし」の文化であった。(中略)
「めし」の善意は、人間の地獄と天国を見つめざるを得ない。ことごとくの相剋は、人倫の愛の中に
解放すべきものだとする叡智は、与えるものと受けるものの調和と一致のためにどのような心と力とを
人倫の「母」に賦与するのか。一つの櫃から分配される「めし」の椀を満たすのは必ずしも等しい量
ではない。幼きもの、壮なるもの、老いたるものは、自然の分に従ってそれぞれ異なる配分を受ける。
過剰も貧困もともに悖理だからである。
 日本の「家」は母の愛を中心に大きな自然の意志をもって個人を止揚する毅然たる秩序に支えられている所に特色がある。 



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2011. 2. 14.. Last Update

仏教と伽藍
縄文的なるもの
めし